Masuk王子もまた挨拶を交わした。 アヌ国の王は、女性だが、体つきががっしりとしている。一見、細くしなやかに見えるが、長い間欠かすことなく鍛錬を積んできた体だ。 そして何より、王と呼ばれるにはまだ若い。血気盛んな雰囲気は、常に戦いに身を置く者の力強さを感じさせる。 お互い形式的な挨拶を交わしたところでアヌの王が私の方を向いた。「おや、貴公は?」「ティナ・アールグレン。私の秘書官です」 ここらへんは、前の記憶と同じ。固い挨拶は変わらないのだろう。「面構えがしっかりしている。それに隙がない。秘書官という割には若いが、将来有望と言ったところか。歓迎しよう。政治の場にいる女性は貴重だからな」 前回と同じように、何も言わず深々と頭を下げた。言い方にどこかトゲがあるのは気になるが、私が何かを言える立場ではない。 アヌ王は玉座に戻ると、質素な造りの肘掛けに腕を置いて頬杖をついた。「して、だ。王子。一つ気になる噂を聞きつけてな。少しいいか?」「フォヴォラの件ですね」「そうだ」「聞くところによると、ベルテーンの成人の儀の翌日に襲われたらしいな。しかも貴公は少人数で街に繰り出していたとか。この者たちと同じか?」「はい、そうです」「なるほど。まあ、咎人が人前に現れるのは久方ぶりのこと。対応が後手に回ったのは仕方のないことだろう。だが、それと同じ人数だけで我が国に訪れるというのは、いささか思慮に欠けるのではないか?」 つっ……。回りくどい嫌な言い回しだ。王子の表情を窺うが、平然と見返していた。
王子と合流した私達はすぐにこのことを報告したが、王子が歩みを止めることはなかった。やはり予想はしていたのだろう。王子はあっさりと笑顔で応じ、先を急ぐことを決める。 ──しかし、私はと言えばまだ、納得しかねていた。「ティナ。なんだかいつも以上に険しい顔をしているね」「……元々、こういう顔です」「ははっ、参ったな」 王子は苦笑すると外を眺めた。南側に面した大きな窓からは外の光が存分に入り込み、部屋の中が暖かな陽気に包まれていた。 あれから特に大きな問題が起きることはなく、私達は予定通り1日かけてアヌ国へとたどり着いた。両側を岩壁に挟まれるようにしてそびえ立つ大扉の前で、門番に訪問のことを告げるとすぐに山のてっぺんに建てられた城へと案内された。「ねぇ、まだ〜? 長いよ、疲れたよ、お店回りたい!」「子どもみたいに駄々をこねるな。これから一番の目的、謁見だ。大人しく待て」「え〜ティナがいつもより厳しい〜」「ここは王国の外だ。厳しいのは当たり前だろ」「マリク王子。ティナが冷たいです。あっそうだ、後で一緒に街を回りましょう! ここにはいろんな宝石が発掘されるんです。しかも格安! 王子に似合う宝石、私が選んであげますから!」 思わず、ため息が出る。ちらちらとこっちを窺いながら話すな。その手には乗らない。今はある意味で敵地でもある。一瞬の油断も命取りになりかねない。 まだおしゃべりに興じるフリーダを放っておいて、私は窓際に立った。窓から眺める景色は自然豊かな森や草原が広がるベルテーンとは全く違い、見渡す限り巨大な山が立ち並んでいる。 アヌ国は、大地の斧をいただく山岳国家だ
「フリーダ。くれぐれも魔法の範囲には気をつけてくれ」「言われなくてもわかってるわよ! あんたもこんな狭いところじゃ剣を振り回せないんじゃないの?」「新しい力に新しい剣がある。問題はない」 林の奥へ分け入ると、空模様もわからなくなるほどの暗闇と耳が痛くなるほどの静寂に襲われる。今まで感じていたはずの気配も霧散しわからなくなる。 ただ、隠し切れない獣の臭いは強い。「なに? 来る? 来るの?」「静かに」 足を止めて身をさらに低く屈める。フリーダも慌てて隠れた。 察するに相対しているのはフォヴォラではない。狼だ。引く気はなさそうだから、飛び掛かるタイミングを見計らっているのだろうが数がわからない。……こちらから仕掛けるか。 私は小声でフリーダに指示を出した。「炎を放ってくれないか」「はぁ? どこに!」「適当な場所でいい。拳ほどの大きさで火をつけてくれ」「あんた、今さっき範囲には気をつけろって」「いいんだ。少しくらい火の手が上がっても対処できる。おそらくな」「おそらくって……はぁ、もうでもわかったわ! 後のことは秘書官様にお願いするからね!」「ああ。頼む、最強の紋章士様」 立ち上がるとフリーダの掲げた右手の紋章が赤く輝き、前方に火種のような小さな炎が放たれた。 炎は見る間に草花を燃料に大きく燃え上がっていく。隠していた気配が如実に現れ、動揺の毛色があちこちに広がる。
素っ頓狂な声が上がるが、木々の暗がりの奥から何かが逃げていく様子は見られなかった。 たとえば、飢えた狼が人を襲う話はよく聞く話だ。山道を通る者は常に何かしらの食料を持っている。「何かありましたか!?」 フリーダの前を行く近衛兵が驚いた表情でこちらを振り返った。王子もアーダンも足を止める。「林の奥に気配があります。こちらの様子を窺っているようですが」「追い払う? 私の魔法なら一発だけど」「確かにフリーダの魔法は強力だけど、ここで使われたら森に火を放つことになりかねないよ。無駄に命を奪いたくはないんだけど」「私が様子を見てきます」 狼ならまだいい。問題は、潜んでいるのがフォヴォラの場合。「王子は先を急いでください。すぐに追いつきますので」「ティナ。それはダメだ。仲間の命を危険にさらすわけにはいかない」 王子の目が笑っていない。だが、なるべく危険は避けたい。「アーダン。王子を連れて行ってほしい」「ティナ!」「王子。ティナの判断が懸命です。いつ敵に襲われるとも限らない。我々は先を急ぐ必要があります。ティナなら十分に対処できる」 ためらうように王子の瞳が左右に揺れる。しかし、仕方ないと判断したのか、重い息を吐いた。「わかった。でも、単独行動は認められない。フリーダ、ティナと行ってくれるかい?」「もちろんです王子。本当は王子の傍を離れたくなぃ゙って、うわぁああ!!」 フリーダの馬が前足を大きく
いつかのときのように市民に変装して城下町を抜けると、草原地帯を一気に馬で駆け抜け山岳地帯へ入っていく。 アヌ国への道は険しい山道。山道に差し掛かる手前で白毛の馬を止めた。 街の方を振り返れば、遙か先に今はない私の家があった平地が見える。 誰も住む者がいなくなった家屋は解体され、飼っていた家畜も処分されたと聞いていた。今は当然、跡形もなく草原の一部と化している。「昔、父に連れられてこの辺りに来たことがあるんだ」 青毛の馬が隣に並び、王子が同じ方向を見た。瞳がどこか遠くを見ている気がした。「数日間お世話になった家があってね。ところが、賊に入られたと聞いている。詳しくは知らないが、それ以来ここに来ることは今日までなかった」「王子! もしやそのときに──」「……どうしたの? ティナ」「いえ、なんでもありません」 アーダンの呼ぶ声がして王子は離れていった。 今は急ぐのが先決だ。山の天気は変わりやすい。少しでも先に急がなければ。 それに、今さら過去の記憶を聞いて私はどうするつもりだったのだ? 王子は私のことなど覚えていないだろう。仮に覚えていたとしても、あのときの関係にはもう戻れない。 私は、近衛兵が全員山道に入ったことを確認すると手綱を緩めて馬を前へと進ませた。一番後ろを私が務め、先頭はアーダン。真ん中に他の近衛兵と王子、そして少し離れてフリーダという配置で先を急ぐ。 とはいえ山道は草原のようにはいかない。隊が乱れぬように慎重に歩を進める必要があった。それに、馬に慣れている私達とは違い、フリーダはかなり不得手だった。 怯
──そして、出立の日。 王子と私達は朝早くから王座の前へ集まっていた。周囲には軍団長以上の軍人や大臣各級といった顔ぶれも並んでいる。ノルドマン大臣以外は。「重々しい顔のおっさんばかりね」「静かに。聞こえるぞ、フリーダ」「あっはっは。まあ、むさ苦しいよな」「アーダンまで。緊張感がなさすぎる」「まあ、いいじゃないか。ティナ。固くなっていてもしょうがない。リラックスして臨もう」「王子、しかしですね──」「ほら、王様が来たわ」 近衛兵に守られるように、王がゆったりとした足取りで玉座の前へと進む。私がひざまずこうとすると、王は「よい」と口にした。「お願いするのは、こちらだ。アールグレン秘書官、王子を頼む」「もったいないお言葉。命を懸けてでも必ず、王子を守り抜きます」 本当に、今度こそ必ず……。 王は顎髭をさすると目を細めて王子を見た。精悍な顔にわずかに不安の色が見て取れる。「して、本当にこの人数で行くのだな?」「はい。みんなとなら何の心配もいりません。それに訪問とはいえ、今回は隣国へ行くのみ。行ってすぐに帰ってまいります」 王子の横顔を見ると青空に輝く太陽のように清々しい表情をしていた。 危険が待っているというのに、不安も心配も何のかげりも見当たらない。「あいわかった」 王は深く目を閉ざすと、今度は私の方を見てにこりと微笑んだ。間近で見ると、笑顔の形が王子にそっくりだ。「アールグレン秘書官。そなたにあるものを渡したい。例のものをここに」「私に……ですか?」 王子と目が合うが、何も知らないようで首を少し横に振った。後ろを振り返り、アーダンやフリーダの顔を見るが同様の反応だった。「ありがとう。アールグレン秘書官。こちらを」 兵士から何かを手渡された王は、自ら私の前へ近付いてきた。両手には赤い布にくるまれた一振りの剣を抱えている。「これは……」「何、その腰に下げている細剣では心許ない場面もあるやもしれないと思ってな。手に取るがよい」「はっ……」 おずおずと王の腕から剣を引き取る。見た目よりは重くない。軽い材質でできているのだろうか。「鞘から抜いてもよろしいでしょうか」「うむ。ここで披露するがいい」「では、失礼いたします」 危険がないようみんなから少し離れて剣を抜いた。「これは……」 宝石のように輝く刀身。きらび
私は表情を隠すと一歩、前に出て王子の横に並ぶ。「大臣、失礼ですが知りたいのは、どの情報でしょうか?」 ノルドマンは、鼻息を出すと手に持っていた紙をゆっくりと広げた。「だから王子の出立の時間だ。予定が早まったようだな? 明後日の早朝、西門より出立とあるが、勝手に決められては困る」 ……出立の予定は王に告げたあの日から何も変わっていない。一週間後だった。つまり、ノルドマンが言っているのは私が内通者を騙すために用意した完全に、偽の情報。
「……王子」 思わず後ずさりする。笑顔だけど目が笑っていなかった。「あっ、王子探してたんです! 中庭で昨日の特訓の続きを──」 フリーダは引きつった笑顔で王子の腕に触れた。なんとか王子の気を逸らそうとしているが、王子はやんわりと腕を離すと私の前に歩んでくる。 ダメだ……逃げ場はない。 マリク王子は変わらぬ笑顔のまま、私の両肩に手を置いた。「ティナ。残念だけど、君が何か隠していることには気づいていた。君のことは信じていたから、打ち明けてくれるのを待っていた」 こんな状況でも、王子の瞳は私を見つめる。胸がぐっと締め付けられるのを感じる。目を見ていられなくて、視線を逸らす。「けど、
夜半。王宮が眠りについたころ、私はローブを羽織り、音を殺して城を抜け出した。 街へ出ると冷たい夜気が肌を刺す。人気がないから石畳を踏む足音さえ、やけに大きく感じる。 向かう先は、住宅区の入口にある教会。かつて私が育った孤児院でもある。 教会は夜でも城下町に住む民のために入口の扉は開いている。中へ入ると、礼拝堂や2階につながる扉はカギが掛けられていたが、懺悔室には煌々と明かりが灯されていた。 懐かしい匂いがした。古びた木の匂いだ。王宮での生活にももう慣れたが、ここへ来るとやっぱり肩の力が抜
そうだろう。失われたはずのものはもう夢の世界にしか存在しない。 ふと、幼子の声がして顔を向ければ見知った顔が2人歩いていた。咄嗟に牛と牛の間に隠れる。 いや、何をやってる。夢なのだから隠れる必要はないはずだ。『この牛のミルクが僕たちの宮殿にも届くの?』『うん、そうだって。お父さんとお母さんが言ってた。うちのミルクとうちの茶葉で作ったミルクティーが一番美味しいんだって。私もいつか大きくなったら、ミルクと茶葉を持っていってマリクに紅茶淹れてあげるね』 これは、私とマリクだ。幼い頃の王子と私が一緒に散歩している。しかも手をつないで。 あのとき、私が王子と過ごした期間はほんの数日だった







